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同志社大学を中心に活動する学生劇団、演劇集団Qの日記
終演しました
2017年03月07日 (火) | 編集 |

綱澤です、あるいはまよよです。
それでも、やっぱり卒業公演「生れ地(あれち)」、終演いたしました。ご後援くださったみなさま、お客さま、誠にありがとうございました。
本作では太田先生のテキストをできるだけわかりやすく構成することを心がけておりましたが、元のテキストの性格や僕の不足のため、難しかったという声がありました。細かい部分に関しては、複数の解釈を容れるようになっており、自由に想像していただいたほうが楽しいので、ここでは全般的な解説だけ、付言したいと思います。


企画書(1月15日)には、内容として次のようなことを書いておりました。

・意図
 2013年度生は、新人公演で「エレメント」を上演した。2017年は太田先生の没十年にあたる。当企画は、この節目の年にもう一度太田先生のテキストを読み直そうという試みである。

・作品概要
 「エレメント」「更地」を核として、太田先生の諸テキストをコラージュ(糊付け)・ブリコラージュ(弥縫)する。この編集作業では、本作が「男と女の話」であり、「生と死の話」であるように筋をつくる。目指すのは、生を寿ぐことである。


コラージュという手法が文学史においていつ発生したかは管見にして知りませんが、たとえば20世紀初頭ダダの運動では、トリスタン・ツァラが新聞の切り抜きによって詩をつくるというアイディアを示しています。太田先生自身は、小劇場演劇史においてはじめて、真面目に引用テキストを扱い、寺山とは違ったしかたで劇場の外部を考えていらっしゃいました。

  「引用はどれほど意識的な主題として考えられてきたか、と見てみると、その言語表現的意味はまだ未開拓という状態のように思われる。」
  「台本作者としての私の書くものを、演出者としての私はおもしろく思えない。台本作者としての私は、ある文脈を通そうとせずにはいられない。だが、演出者としての私には、それがうっとうしい。」
  「〈自己完結性〉は、ありえぬこと、近代的幻想にすぎぬものであることが歴然とし、〈他者〉〈他なるもの〉は、その存在が広がる。」
    (太田省吾、2002年11月「舞台芸術」第2号)

太田先生は引用によって自己完結性を破り、他者性の表現としたのですが、ところで、僕たちにとっては太田先生が一人の絶対的な他者であります。ですから、太田省吾劇テクスト集のすべてが〈引用テキスト〉なのです。
太田省吾をさらに編集し、再構成することでしか、太田省吾のテキストを太田省吾の思考の延長上で上演することはできないのではないか、そういう疑問が、僕に上の企画書を書かせたような気がします。


このような方法論のもと、編集を行ったのですが、編集には指針が必要です。それが「男と女の話」であり、「生と死の話」であるように筋をつくる、ということで、その指針の指す先に「生を寿ぐこと」を置きました。
太田先生は人間の条件とでもいうようなものに、非常に強い関心をお持ちでした。生れて、成長し、老いて、死ぬという〈絶対過程〉がそれです。人間に与えられた指針というのは、〈生れろ、そして死ね〉ということくらいで、その絶対的なヤジルシの命令にしたがって、登場人物は歩いていきます。
一人で生まれ、一人で死ぬことを命令され、大地の上を彷徨することには、いかなる意味もない。太田先生はジャンケレヴィッチに寄せてこう書いています。

  「「生存一般の意味、私の人生全体の意味を求めてはならないのです。そんなものはないからです。」/このようなリアルな目によってこそ、わたしたちの生きている日々が息づくものとなる。「生き、そして消えてしまう」者でなければ、現わせないものがあるということだ。」
    (「産経新聞」1996年 2月~3月「太田省吾が読む」連載)

矢印に沿って行くだけのストーリーは、生一般の無意味さに迷いつつ歩くということとして捉えることができます。
このような無意味のなかで、生きていてよかった、と希望を持てること、それだけが大切です。
〈人が何としてもそうしないでいられないこと〉とはなんだろう。
人は考えずにはいられない。
人は考えつつ歩まずにはいられない。
人は死へ向かって歩まずにはいられない。
人は死ぬことを知っているから、やさしさを学ばずにはいられない。

「よかっただろう。旅に来て。」

人は一人で逝くけれども、「お前」と旅ができてよかった。これを「男と女の話」と言って悪ければ、「愛の話」と言ってもいい。
ともかく、生活の中に〈希望〉を見出すことで、登場人物は劇から日常へ帰っていきます。


場面0 棲家……家族の死と家の解体によって、社会的条件をはぎとり、老人の裸の存在を浮かび上がらせる。
場面1 朝の食卓……沈黙を太田省吾の到達点ではなく、出発点として位置付ける。
場面2 春の夜……沈黙の冬が終わり、言葉が芽吹く春がやってくる。
場面X 愛の教室……劇と生活、饒舌と緘黙の対比を作る。場面1と場面7をつなぐ結節点としての役割。
場面3 夜の街角(人は考えつつ歩む)……言葉を覚えたばかりに、人は迷い疑うことまで覚えてしまう。
場面4 柔らかな肉……迷い疑う思考を笑い飛ばす。
場面5 誕生……笑いのあと、生という単純な次元を反省する。
場面6 月に吠える……生を反省するのではなく、楽しむ。
場面7 低い宇宙……登場人物たちは劇から生活に帰っていく。

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